日揮会と日美交のあゆみ

日輝会(日輝会美術協会)と日美交(日本美術文化交流協会)とは!

日輝会は長年海外で活躍した故 三上隆彦画伯が創設。昭和51年に第一回日輝展を公募総合美術展として上野の森美術館で開催しました。以来日輝展は年を経るごとに会員数、作品数も増し、その質も向上したので昭和59年第9回展より会場を東京都美術館に会場を移し、毎年12月に公募展として開催。平成20年に第33回展を終えました。

また故 三上会長は昭和62年に地方文化の一層の発展を求めて「全国の各町村の交流会」を設立した。現「日本美術文化交流協会(日美交)」と改称し各地の日輝会美術館(現在5市町村)の運営、代表者会議を開催し、日輝会と共に両輪の活動をしております。  ここに昭和60年4月に発行された日輝ニューズに故三上会長の寄稿文があります。日美交、また芸術家としての使命感が熱く語られています。

美術家の使命


会長 三上隆彦


博物館の倉庫に、偉い彫刻家の作品が、頭から白布をかけられて保存されている。時が来なければ、誰も見ることは出来ない。

 渋谷駅前のハチ公の銅像は、誰が作ったのか知らないが、人々のためになっている。作家の名も知る人は少ないだろう。それが偉い彫刻家であってもなくても、 ハチ公の銅像は、市民と共に風雪を共にし、世のため人のために、立派に「美術品」としての使命を果たしている。ここが大切な所であって、美術家の使命は、 その人の作品が、いかに世のため、人のために活用されるかである。

それは美術年鑑類のランクに関係なく、心魂を注いで制作した作品は、必ず世の人に与える何物かがある筈である。それを与えずに自分の物置に寝かしているのが、日本の作家の普通のあり方である。

私はこの数年来、作品の「活用」がどれほど世界社会のために役立つか、ということを体験してきた。

日輝会々員の絶大なる協力によって、一昨年はスエーデンで日輝会海外展をマルモ国立美術館において116点を出品して開催し、全作品を売上げ、その総額を 同国の癌研究所に寄附した。昨年はオランダ・ロッテルダム市で同様125点を出品して行ない、総額を同市の福祉に寄附した。

本年は9月にロンドンのウエストミンスター・カテドラルにおいて開催、総売上金を世界の動物福祉に寄附することになっている。

以上は海外に対する「日本人として」の善意であるが、国内では五島列島小値賀に日輝会離島美術館をつくり、3年間で100点の作品の寄附、宮城県本吉町に日輝会漁村美術館をつくり、同様100点を寄附するべく、着々と僻地美術館構想を実現しつゝある。

これらは要するに、作家である日輝会々員が、美術家としての使命を自覚し、作品に対する愛着、経済的支障を敢然と乗り越え、心の大きな美術家として、作品による愛を人類に与える平和の戦士として前進してくれているために実現したのである。

私は会員の諸兄姉に、ただ感謝しております。そして会員の作品が、世界のどこかで大切に保管されされ、多数の人々に称えられ、多数の人々の心を豊かにしつゝあると確信しております。

然し我々の努力はまだまだです。

小値賀の離島美術館には、納入作品は66点、本吉町の漁村美術館には、まだ56点しか行っておりません。作品はもっともっと必要なのです。ロンドン展は、日本画と墨絵が必要です。日本にたったひとつの、善意の美術団体の誇りをもって、引続きご協力をお願いいたします。

世界中のあちこちで、自分の作品がその使命を果たしている喜びを、しかと胸にしめ、人類のために職業奉仕を続けていただきたいと思います。


(日輝ニューズ 昭和60年4月1日)


私たち日輝会の会員、役員、日美交の各市町村役員の皆様は故三上隆彦画伯の意志を厚く受けとめて、今後ともこの活動に誇りを持ち、活動を続けて参ります。

2.日美交創立とその後の歩み 

以下の文は第20回記念作品集を発行した平成7年に日輝会美術館設置市町村交流会の顧問 故 松橋福蔵氏の寄稿文をそのまま掲載したものです。


昭和58年9月、読売新聞のある記事が強く胸を打ち、脳裏から離れませんでした。

それは、故三上隆彦画伯(日輝会美術協会創設者)が、長崎県小値賀町の美術館設立に向け、絵画100点を寄贈する事を約束し、町民はじめ関係者に大変歓迎されているという記事でした。

これに感動した私は、一つの願いを抱いて、三上画伯の個展会場を尋ねました。三上画伯は一面識もない私に快く会ってくださり、私の故郷、秋田県五城目町への絵画寄贈の願いを厚かましくも申し上げると、五城目町への視察を即、約束して下さいました。

三上画伯の寛容な、お人柄に改めて感激して帰路につきました。

その後もことある度に三上画伯のアトリエ(東京都世田谷区経堂)に伺い、親交を深めて参りました。

昭和58年12月に宮城県本吉町、昭和60年6月に秋田県五城目町にそれぞれ絵画寄贈の締結がなされました。アトリエに伺う度に、全国から絵画寄贈を自町に希望する旨、続々と届いていました。

昭和60年7月に、北海道利尻富士町、同62年2月に、兵庫県篠山町、7月に熊本県南小国町との寄贈契約がなされました。

この間、三上画伯を始め日輝会会員の方々は寄贈を通じて地域美術文化の貢献に意欲を燃やし続けていらっしゃいました。この状況に、より一層の発展を求め て、「各町の交流会の創設」を提言し、賛同して下さった三上画伯は『美術館設置町、予定町交流について』という草案を書いて下さいました。その後交流会設 立に向け、五城目町長と度重なる検討を進め、昭和62年12月13日、交流会設立総会の運びとなりました。五城目町長が設立発起人となり、東京都台東区上 野公園内『精養軒』に、小値賀町、本吉町、五城目町、利尻富士町、篠山町、南小国町の六町関係者が集い、熱心な討議を経て、参加者全員の同意のもと、交流 会創立が決定されました。会の名称を『日輝会美術館設置町村交流会』仮称(日美交)とし、会則が定められ、初代会長に五城目町長加賀谷力司氏が選任されま した。

昭和63年に東京都八丈町から寄贈の要請がありました。しかし、その頃から三上画伯は体調を崩され、歩行も困難になっておられました。にもかかわらず地域 美術文化向上に対する意欲は衰えず、車椅子で八丈町に出向かれました。その姿に同行された日輝会会員も、三上画伯の責任感の強さを見て深く感銘を受けまし た。しかし、大変残念ながら公的な、お姿はそれが最後となり、昭和63年9月、志半ばにして亡くなられました。享年72歳でした。

日輝会は、常務理事の黒澤一男氏が代表理事に選任されて、三上画伯の遺志を引き継がれ、平成元年11月に群馬県上野村との寄贈契約をされました。一方、平成元年12月の日美交総会では、会長の任期満了に伴い、利尻富士町長安達敏夫氏が選任されました。

そ の当時、日輝会利尻富士町立美術館の建設中で、平成2年6月に完成致しました。北限の地に建設された立派な美術館の落成式に、日美交加盟各関係者、日輝会 会員など多数の方々が出席されました。館内に展示された三上画伯の遺作と遺品に、皆、感慨にふけりながら見入って居りました。落成式後に会場を利尻島開発 総合センターに移し、第1回日美交サミットが開催されました。

会長安達氏は挨拶の中で『日輝会と日美交は、両輪の如くである』と、述べられ ましたが、日輝会と日美交の太い絆を示す名言であると存じます。サミットでは、今後の日美交の有り方が熱心に討議され、決議文が発表されました。以来、日 輝会と日美交は一層の信頼を深め、日輝会会員の努力により、契約の100点を越える寄贈を受けた町も生まれております。平成2年2月には山形県朝日村との 寄贈契約がなされました。海外でも、三上画伯存命中から懸案であった韓国との契約が成立し、平成2年4月に南海郡に日輝会韓国美術館が開館されました。

平成2年12月の日美交総会で、日輝会会員の方々の永年に渡る積極的な寄贈に報いる為、「寄贈に特に貢献された日輝会会員の表彰」を提案致しました。日美 交会長の『善意には善意をもって接す』とのご意見で賛同を受け、表彰基準などを次回のサミットで結論を出す事が決定されました。平成3年10月、南小国町 の第2回サミットで、『美術功労章』が贈られる事が決定されました。これにより平成3年12月の日輝会総会から日美交の功労基準に基づき、美術功労章が贈 られております。こうした中、平成4年11月、日輝会代表理事黒澤一男氏が多くの功績を残しながら82歳にて急逝されるという不幸に見舞われました。その 為、日輝会理事会を経て、京都教育大学名誉教授の山崎正義氏が会長に選任されました。その後、平成6年10月に京都府京北町との寄贈契約がされました。

第6回日美交サミットが、平成7年10月に五城目町にて開催されました。町立雀館公園内に、故三上画伯の筆塚が建立され、日輝会会員と日美交関係者により 除幕式が行われました。日輝展20周年の記念すべき年に、筆塚が建立された事は、誠に意義深く感無量の思いがありました。今後、さらに日輝会と日美交の両 輪は、地方美術文化向上の情熱の音を響かせながら、力を合わせ、一歩一歩、前進する事を確信しております。稚拙ながら、日美交設立とその後の歩みをここに ご報告させていただきました。


現在は市町村合併が主な原因で、宮城県本吉町、長崎県小値賀町、北海道利尻富士町、群馬県上野村、新潟県胎内市の5市町村と縮小いたしましたが、合併が一段落したことを機に、更なる勧誘を始めたいと思います。

各美術館の紹介や、日輝会美術館設立を希望する市区町村向けの情報は「日輝会美術館」のページをご覧ください。